ヘルシオホットクックの威力

長野県で幼児・小学生向けにバルシューレ教室(ボール教室)を開催している小柳なつみです。

 

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運動教室とは関係ない内容が続いているが…

それにしても、最近感動したことをどうしても綴っておきたい。

 

最近、ヘルシオホットクックという無水自動調理鍋を買った。

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これが、もう、本当に、すごい。

 

本当に、すごい。

 

友人に話したら、テレビのCMでやっていると言っていたので、

結構有名なのだろうか。

 

購入に至ったのは、勝間和代さん著

勝間式 超ロジカル家事

を読んだのがきっかけだ。

あの超論理的、超ロジック重視の経済評論家が

時間もお金もかけて自ら研究し、

日々の家事の時短・効率化を紹介してくれる本だ。

今の自分では到底投資できない時間とお金を使って実験し、

しかも鍛えられた論理的思考力を持って

それらの情報を整理して伝えてくれるのだから、

こちら側の投資として1,200円とはなんとお得なのか。

 

別に勝間さん崇拝者でもないし、

回し者でもない。

 

ただただ、この人がかけた労力を考えると、

なんと有難いのかと思うのである。

(だって、料理本なんて100冊以上読んでるらしいよ。)

 

ここまで絶賛しておいてだが、

この本の中では今回話題にする

ヘルシオホットクックは、

そこまで推奨していない。笑

混ぜる機能がイマイチなんだそう。

 

元々は、本で推奨されている象印のIH鍋を購入しようと電気屋に行ったのだった。

しかし、そこでホットクックの存在を知り、最終的にホットクックを買うことにした。

 

ホットクックの気に入っているところは、

材料を切って調味料を入れてボタンを押せば、

一品作ってくれるところだ。

しかも得意分野が、自分で作るには面倒くさい

煮込み系の料理であること。

カレーとかシチューとか

ひじきや大根の煮物

筑前

など、普通に鍋で作るとなったら、時間測ってグツグツ煮て、

火加減調節して、頃合いをみて味付けして…

みたいな、工程がとにかく面倒くさい。

 

いろんな野菜取れるし日持ちするという点で

煮込み系は有難いのだが、

切って終わり、サッと炒めて終わり

みたいな料理と比べると本当に面倒くさい。

 

それを、このホットクックは、

切って入れてボタンを押すというだけで、

しかも朝や寝る前に予約しておけば、

帰ったタイミング、起きたタイミングで

おかずができているのだ。

 

我が家は朝お味噌汁をよく飲むのだが、

これを作るのが結構面倒だった。

それもこのホットクックに夜材料入れておけば

朝起きた時にできている。

 

この手軽さと、何より台所を離れられる、

その場にずっといなくてもいいということが、

どれだけ精神的に楽にしてくれるのかということを

日々実感している。

鍋に突っ込んでボタンを押しておけば、

出来上がりまで子どもをお風呂に入れたり

一緒に遊んだりできる。

 

購入してからは、一日も欠かさずフル活用している。

安くないが、投資価値は十分あったと

鍋を愛でる毎日である。

 

小さい子どもがいると、外食もいちいち面倒くさい。

今は結局家で食べるのが一番楽で疲れない。

 

自分と家族の精神的・肉体的健康のために、

調理家電はオススメだよ!

というお話でした。

 

 

 

 

「ねぇ聞いて聞いて!」の傲慢さ。

長野でバルシューレ教室(ボール運動教室)をしている小柳です。

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先週から始まった、資格取得のために東京に通いつめる8日間。

今日でやっと最終日だが、夫も私もヘトヘトである。

毎朝、「あと◯日...あと◯日...」

と残日数を確認し合うのが日課であった。

 

家族全体の疲労が頂点に達した昨夜、事件が起きる。

 

義理母が持たせてくれた(そういえばあちらの疲労具合も確認せねば...)カツ丼と夏野菜の浅漬けを食べながら、何気なく日中の出来事を話し始めた私。

 

それを聞く夫の相槌は、

「へぇ〜!」

「あぁ〜、あるあるぅ〜!」

「そうだよね、そうだよねぇ〜」

 

字面にするとなかなか優秀だ。

 

しかしその言い方が、とにかく感に触るのである。人を小バカにするような、こうすればいいんでしょ的な、つまりわざとらしいのだ。

 

ただ、このような相槌が生まれたのには背景がある。

過去に私が話しを聞いて欲しいのに思ったように聞いてくれないということがあり、その際

「アドバイスが欲しいんじゃなくて、ただ聞いてくれればいいのに」

と不満を漏らして以来、時たま今回のような聞いてるよ聞いてるよ〜、こうやればいいんでしょ〜的な相槌砲が打ち込まれるようになった。

 

自分に余裕があるときは、

「出してきたな相槌砲〜」

で流せるのだが、

なんせ眠いし疲れているし余裕がない。

 

「むかつく。」

と一言言い放って、その後は鉄仮面状態だ。

(※私の怒った状態は我が家ではこう呼ばれる。何があっても無表情。問いかけには一切応じない状態。)

 

重苦しい食卓で、今度は娘が反撃を始めた。

食事の途中で机の上に足をのせ始めたのだ。

「下ろしなさい。」

下ろさない。

「下ろしなさい。」

下ろさない。

 

応じない娘の相手は鉄仮面だ。

早々に無視を決め込む。

構ってほしくて泣きながら抱っこをせがむ娘。

見兼ねた夫が娘に

「ママにごめんなさいしなさい。」

となだめる。

 

「ママにごめんなさいしなさい。」

 

「ママにごめんなさいしなさい。」

 

違う...

 

娘じゃなくてお前が引き金じゃぁぼけぇええええええ!

 

これを最後にモノに当たりたい衝動に乗っ取られた私は、机に置いてあった娘のスプーンを握りしめ、

「むかつくー!!!」

と言いながら拳を何度も机に叩きつけた。

 

びっくりする夫。

 

「ママ、スプーン机にトントン?」

喜んで真似したがる娘。

 

もう無理だ。

 

とりあえず席を離れる。

家事をする。

少しずつ冷静になる。

 

私は疲れている。

しかし、夫も疲れている。

私は話したい。

しかし、夫は聞きたいわけじゃない。

 

お風呂に入りながら、

「ねぇ、聞いて聞いて!」

の前置きだけでマシンガンのように話し始めることの強引さを反省した。

 

お腹いっぱいの相手に

「ねぇ、おいしいから食べて食べて!」

と相手の反応を待たずに口にモノを突っ込むようなものだ。

 

相手に聞く、聞かないの選択をする権利がもちろんある。

 

 

「ねぇ聞いて聞いて!」

という言葉の傲慢さたるや。

 

 

お風呂から上がり、机に座る夫に麦茶を差し出して、

「さっきはすみませんでした。話しを聞いてくらないことにムカつきました。しかし、話しを聞きたくないときもあると過去に言っていたことを思い出しました。今後は、ねぇ聞いて聞いて!を、ねぇ話したいことがあるんだけど、聞いてくれる?と、選択できるようにします。

これ、麦茶。どうぞ。」

 

と詫びた。

詫びながら、詫びる自分エライ。と自分の自尊心を必死に守った。

 

疲労を溜めるのは本当によくない。

 

今回の研修内容を骨の髄まで染み込ませて、生み出す対価を惜しみなく疲労回避に回せるくらいの価値にしよう。

家族の平和と心の安定のため、疲労回避に惜しみなく投資できるようにしよう。

 

そう誓い、研修参加の意味を改めて噛み締めた夜だった。

 

 

 

 

娘の発熱、私の研修、夫の仕事

長野でバルシューレ教室(ボール教室)をやっている小柳です。

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昨日から東京に通っている。

春から通信で受講しているモンテッソーリ教育の講師資格取得講座。

出席必須の講義が8日間連続で東京であるのだ。

娘、夫、私、それぞれの生活を勘案し、毎日日帰りで通うことにしたのだが、朝7時前に出発し、帰りは19時半。

娘の保育園送り迎えや夕飯の準備など全部丸投げだが、夫と義理母タッグのおかげでなんとか参加することになった。

 

加えて今妊婦なもんだから、勢いだけではどうにもならない制約もある。

些細なことだが、ちょっとでも体調が優れなければ絶対無理しない。歩くときは急ぎ過ぎない、走らない、など、余計な負荷がかかりすぎないように、体調優先で行動を選ぶようにしている。

 

そして臨んだ講義初日。

講義開始3分前に、携帯が鳴った。

保育園からだ。

 

まっ、まさか...

 

娘が手足口病の疑いがあるため、すぐにお迎えに来て欲しいとのこと。

 

慌てて夫に連絡をとる。

しかし、手足口病ということは少なくとも数日保育園にいけない。

 

予定していた8日間の生活計画は、初日にして変更を余儀なくされた。

 

熱も出て元気がない娘。

仕事がある夫。

講義に出ないと資格がとれない私。

 

帰宅後娘を寝かしつけて、義理母が私へと夫に持たせてくれた丼2杯分くらいあるカレーを頬張りながら、はて、何を優先すべきかと考えた。

 

一晩寝て、娘の様子も悪化はしなかったため、とりあえず講義には行くことにした。

 

妊娠している私に、

「なんの研修か知らないけど、身体に何か粗相があったらいけないからね。」

と賛成しかねる感じなのに、ついでに娘と夫の夕飯準備のおしつけを引き受けてくれた義理母。

 

子育てに関して、口を開けば

「もう、なんたって子どもにとっては母親なのよ!」

と、母親の重要性を語る義理母。

 

今回の一件で、一番気が気でないのはもしかしたら義理母かもしれない。

 

具合の悪い子どものそばにいてあげないで、それでも母親なの?

 

そんな風に思ってるかもなぁと、ふと考えたが、いやいや、憶測であれこれ考えるのは身体によくない。

体調第一体調第一。

そう言い聞かせながら丼カレーをかきこんだ。

 

こんなことを書きながら山手線に乗っていたら、電車がトラブルで緊急停車した。

なんと...

 

東京って楽しい。

小学生がドッジボールを好む理由

長野県でバルシューレ教室(ボールを使った運動教室)を開催している小柳なつみです。

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(娘の保育園で配布された「お子様への願い事」を書く短冊。)

 

県内2カ所で開催しているバルシューレ教室。

昨日は片方の小学生クラスがしばらくお休みになる(講師都合+祝日の関係で)前最後の教室だったため、

教室の後半はみんなが好きなプログラムやろー!

と声をかけた。

今までやってきたプログラムの中で

楽しそうにやっていたもの2、3個を

想像していたが、返ってきたのは

 

ドッジボールがいい!!!」

 

 

えっ???

 

 

ドッジボールはバルシューレのプログラムにない。

もちろん、教室でやったこともない。

 

しかし、誰かが言い出したその言葉に、

他の子が次々に乗っかって、

しかもなんかみんな目がキラキラして見えたので、

それならばと希望通りドッジーボールをやることにした。

 

帰りの車の中で

なんでそんなにドッジーボールがやりたいんだろう?

と考えてみたが、結論、

みんな人にボールをぶつけたいんだな

ということと、

あたるかあたらないかという

スリルがたまらないんだな

ということ。

 

思えば、人にボールでもモノでも、

投げてぶつけていい場面というのは

日常の中ではほぼない。

やりたくてもできない。

好奇心に負けやってみたところで、

大体怒られる。

 

しかし、ドッジボールならそれが許される。

しかも、仲間から称賛までされる。

 

そんな日常の抑制やストレスが乗っかったボールの

恐ろしいこと恐ろしいこと。

しかし、そんな相手の恐ろしいボールを

受け手はするりとかわす。

相手の望み通りにしなかったことの

快感と言ったら。

日常生活の中では、他者の望みにできるだけ

答えることが望ましいとされる。

そばにあるリモコンを

「とって」と言われ、

「やだ」と返したら、

大体険悪になるだろう。

 

しかし、ドッジボールならそれが許される。

しかも、仲間から褒められる。

 

 

私は自分の主催するバルシューレ教室が、

できるだけ子どもたちが気持ちよく

スッキリして帰ってもらう場になるといいな

と思っている。

 

「楽しい」と思ったり

夢中になる感覚があればあるほど、

脳内でドーパミンが分泌されて

学習(身体的な)能力も上がるらしいので、

身体的な発達も促されるし、

何より快感を味わえる。

気分がすっきりする。

 

運動能力をあげながら、

快感も得てすっきり家に帰り、

また翌日から学校なり家なりでの

日常生活を頑張ってくれたらいいな

と思う。

 

そんな体験を、プログラムをやっている間中

ずっと提供するにはまだまだ力不足だが、

しかしここを目指して試行錯誤を続けたい。

 

 

ドッジボールの威力を思い知った夏の夕暮れ。

 

すげぇぜドッジボール

 

 

 

 

子どもの「できない」と大人の受け止め方

長野で幼児・小学生向けに運動教室をしている小柳です。

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幼児クラスの時間では、プログラムが思い通りにできず

子どもがお母さんのところに泣きついていく光景がよく見られる。

 

先日も、とある女の子が自分の思い通りに風船やボールを操れず、

教室の間2度3度と母親の元に行き、泣いていた。

 

お母さんは

「もう一回やってみればいいじゃん」

「そんなに泣くことないでしょう」

「最後までやってみなよ」

と、正確には覚えていないが、

こんなようなことを女の子に言っていた。

 

泣いている女の子を見ていた別のお母さんは、

「ああいう風に悔しい!ってなっているときはどうやって対応したらいいんでしょうね」

と、ポツンと言った。

 

教室主催側の私としては、

やっている子ができたりできなかったりするプログラムを提供することは理想だ。

完全にできないわけじゃなくて、たまにできる。

夢中で何度もやって、少しずつ身体が慣れていく。

気づいたらできることが増えてた。

そんな展開は理想だ。

 

そういう意味では、泣こうがわめこうが表現方法がどうであれ、

悔しさを感じているその子には、「いいね!」と思う。

しかしそのあとプログラムを投げ出しお母さんに飛びついていってしまう。

それはどうだろうか。

 

「悔しい!」という不快な感情が

その後快感を得るための原動力になるような働きかけができたら

悔しいと思ったその経験はより生かされると思う。

 

そのためには、

お母さんの元で泣く子に

「頑張って最後までやろう」

とかいうよりも、

「できなくて悔しかったね」

と、状況と感情を言葉で共有したあと、

「もう一回同じことやってみる?それとも得意な〇〇の方やってみる?」

と、同じことを続けてやることで

できない→できるになるプロセスを経験して快感を得るか、

できなかったことから一旦離れて、

もともと得意なことをやることで快感を得るか、

そういう選択肢を提示できたら、

「悔しい!」と思った経験が生かされるのではないか

と仮説を立てた。

 

今回は、そんな場面での対応をお母さんに任せたまま

「気持ちが落ち着いたらまたおいで」

と、関わることが少なかったが、

次回以降の教室で同場面に遭遇したら、

この仮説を試してみよう。

 

車の移動時間を有意義にしてくれた3つのアプリ

こんにちは。

長野で幼児・小学生向けに

運動教室を運営している小柳です。

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地方に住んでいると、

移動手段として欠かせないのが車。

通勤や子供の送迎、お買い物など

ありとあらゆる場面で利用する。

車に乗らない日ってほとんどない。

 

この車を運転している時間

というのがバカにならない。

下手すれば1日何時間も

目的地に移動するためだけに

時間を使っている。

 

もしこれが電車だったら、

移動しながら携帯いじったり本を読んだり、

自分の時間として使える。

 

その損失感たるや。

 

そんな私の損失感を和らげてくれた

アプリが以下の3つだ。

 

podcast

bluetoothiphone

車のステレオを繋いで聴いている。

辛坊治郎ズームそこまで言うか!」

とか

バイリンガルニュース」

を聴くことが多い。

 

どちらも話題のニュースを紹介したり

解説したりするものなのだが、

知らない世界の出来事や

知っているニュースの

新しい切り口などが聴けて

とても楽しい。

 

②Audible

www.audible.co.jp

本を朗読で聴けるオーディオブック。

手と目を使わずに本の内容を

自分の中に取り込める。

倍速でも聴けるのが嬉しい。

 

ただの運転3時間が、読書3時間に変わる。

私はエッセイや教養本みたいのを

聴くことが多い。

開発してくれた人、本当にありがとう。

 

amazon music

情報ばかり入れるのも疲れるし、

気分がのらない時、

ゆったりしたい時は

amazon musicで音楽を聴いている。

 

電車では無理だけど車では可能なこと。

車内で大声で歌うこと。

一人カラオケ最高。

 

 

以上3つのアプリによって

だいぶ運転に対する抵抗はなくなった。

しかし、それでもやっぱり運転はしたくない。

 

早く自動運転が実現してほしい。

もしくは、運転手付きの生活を実現したい。

 

 

わたしが子どもをもった理由

こんにちは。

少子化の問題や保育園の待機児童問題、女性の社会進出、養子縁組、2分の1成人式の是非、虐待。

子どもや家族に関わるニュースをみたり、自分も日常で子どもと夫と家族として生活したりしながら、家族という組織や子どもを持つということについて色々と考えることがある。

そんな中、たまたま書店で見つけ読んだ本。

kanki-pub.co.jp

 

私は今のところ一人子どもを持つ人生を送っているが、

子どもがいるいない、

結婚しているしていない、

親子に血縁関係があるない、

ということが、

「朝はパン派?ごはん派?あっ、ごはん派ね。」

というくらい、

好みというかいい意味で取るに足らないことというか、

そんな感覚で捉えられる社会がいいなと思う。

 

本の中で最も印象的だった部分は、

「なぜ子どもをもちたいのか」

という問いだった。

 

 

子どもは可愛いくて愛おしいが、

自分の時間と行動を悪気もなく

ガンガン制限してくる存在でもある。

 

「愛しい娘に自分の時間を全て捧げます」

と言えるほど覚悟が決まっているわけでもない。

 

今は妊娠していることもあり、

子どもを生むこと、

生み育てることに伴うリスクの大きさを、

いつも考えてしまう。

自分が食べるものや自分の行動がいちいち胎児に影響を与える。

そんな日々が10ヶ月も続くなんて、

それを愛おしい日々と思えるほど精神も成熟していない。

いや、子どもがいること自体は喜ばしいのだが、

妊娠中や出産は何が起こるかわからない、

喜びと悲しみが常に隣り合わせのものだよね、

という気持ちが拭えない。

 

子どもをもつとか育てるとかいうことは

リスクまみれと言っても言い過ぎではないくらいに思うのだが、

それでもなお子どもをもちたいと思って、

子どもをもったのは何が背景かと考えると、

最終的に行き着いたのは結局自分の好奇心だった。

 

出産してみたい。

子どもを育ててみたい。

人が育っていく過程を共に経験してみたい。

 

こう書くと、

好奇心だけで子どもを産んで無責任だ

などという批判を受けそうだ。

しかし、真剣に考えてみて、

今のところ行き着くのはやっぱり好奇心である。

 

本の中には、著者が自分の母親になぜ自分を産んだのか、

ということを問いただしたという過去の記述がある。

 

自分が将来子どもに同じことを問われたら、

「私の好奇心です。」

と真面目にこたえる以外ない。

 

なんだか複雑な内容になってしまったが、

しかし子どもをもつ、育てるということに関して

自分の考えを深めたり言語化することに

とても力を貸してくれる本だった。

 

最後に、私(と夫)の好奇心で生まれてきた娘との今は、

成長を喜んだり、

自分の時間が削られることにイライラしたり、

一緒にひたすら歌を歌ったり、

夫と育児を押し付けあったり、

とにかく発見がある生活だ。

娘はどう思っているかは謎である。

 

出会えてよかった本だった。