小学生がドッジボールを好む理由

長野県でバルシューレ教室(ボールを使った運動教室)を開催している小柳なつみです。

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(娘の保育園で配布された「お子様への願い事」を書く短冊。)

 

県内2カ所で開催しているバルシューレ教室。

昨日は片方の小学生クラスがしばらくお休みになる(講師都合+祝日の関係で)前最後の教室だったため、

教室の後半はみんなが好きなプログラムやろー!

と声をかけた。

今までやってきたプログラムの中で

楽しそうにやっていたもの2、3個を

想像していたが、返ってきたのは

 

ドッジボールがいい!!!」

 

 

えっ???

 

 

ドッジボールはバルシューレのプログラムにない。

もちろん、教室でやったこともない。

 

しかし、誰かが言い出したその言葉に、

他の子が次々に乗っかって、

しかもなんかみんな目がキラキラして見えたので、

それならばと希望通りドッジーボールをやることにした。

 

帰りの車の中で

なんでそんなにドッジーボールがやりたいんだろう?

と考えてみたが、結論、

みんな人にボールをぶつけたいんだな

ということと、

あたるかあたらないかという

スリルがたまらないんだな

ということ。

 

思えば、人にボールでもモノでも、

投げてぶつけていい場面というのは

日常の中ではほぼない。

やりたくてもできない。

好奇心に負けやってみたところで、

大体怒られる。

 

しかし、ドッジボールならそれが許される。

しかも、仲間から称賛までされる。

 

そんな日常の抑制やストレスが乗っかったボールの

恐ろしいこと恐ろしいこと。

しかし、そんな相手の恐ろしいボールを

受け手はするりとかわす。

相手の望み通りにしなかったことの

快感と言ったら。

日常生活の中では、他者の望みにできるだけ

答えることが望ましいとされる。

そばにあるリモコンを

「とって」と言われ、

「やだ」と返したら、

大体険悪になるだろう。

 

しかし、ドッジボールならそれが許される。

しかも、仲間から褒められる。

 

 

私は自分の主催するバルシューレ教室が、

できるだけ子どもたちが気持ちよく

スッキリして帰ってもらう場になるといいな

と思っている。

 

「楽しい」と思ったり

夢中になる感覚があればあるほど、

脳内でドーパミンが分泌されて

学習(身体的な)能力も上がるらしいので、

身体的な発達も促されるし、

何より快感を味わえる。

気分がすっきりする。

 

運動能力をあげながら、

快感も得てすっきり家に帰り、

また翌日から学校なり家なりでの

日常生活を頑張ってくれたらいいな

と思う。

 

そんな体験を、プログラムをやっている間中

ずっと提供するにはまだまだ力不足だが、

しかしここを目指して試行錯誤を続けたい。

 

 

ドッジボールの威力を思い知った夏の夕暮れ。

 

すげぇぜドッジボール

 

 

 

 

子どもの「できない」と大人の受け止め方

長野で幼児・小学生向けに運動教室をしている小柳です。

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幼児クラスの時間では、プログラムが思い通りにできず

子どもがお母さんのところに泣きついていく光景がよく見られる。

 

先日も、とある女の子が自分の思い通りに風船やボールを操れず、

教室の間2度3度と母親の元に行き、泣いていた。

 

お母さんは

「もう一回やってみればいいじゃん」

「そんなに泣くことないでしょう」

「最後までやってみなよ」

と、正確には覚えていないが、

こんなようなことを女の子に言っていた。

 

泣いている女の子を見ていた別のお母さんは、

「ああいう風に悔しい!ってなっているときはどうやって対応したらいいんでしょうね」

と、ポツンと言った。

 

教室主催側の私としては、

やっている子ができたりできなかったりするプログラムを提供することは理想だ。

完全にできないわけじゃなくて、たまにできる。

夢中で何度もやって、少しずつ身体が慣れていく。

気づいたらできることが増えてた。

そんな展開は理想だ。

 

そういう意味では、泣こうがわめこうが表現方法がどうであれ、

悔しさを感じているその子には、「いいね!」と思う。

しかしそのあとプログラムを投げ出しお母さんに飛びついていってしまう。

それはどうだろうか。

 

「悔しい!」という不快な感情が

その後快感を得るための原動力になるような働きかけができたら

悔しいと思ったその経験はより生かされると思う。

 

そのためには、

お母さんの元で泣く子に

「頑張って最後までやろう」

とかいうよりも、

「できなくて悔しかったね」

と、状況と感情を言葉で共有したあと、

「もう一回同じことやってみる?それとも得意な〇〇の方やってみる?」

と、同じことを続けてやることで

できない→できるになるプロセスを経験して快感を得るか、

できなかったことから一旦離れて、

もともと得意なことをやることで快感を得るか、

そういう選択肢を提示できたら、

「悔しい!」と思った経験が生かされるのではないか

と仮説を立てた。

 

今回は、そんな場面での対応をお母さんに任せたまま

「気持ちが落ち着いたらまたおいで」

と、関わることが少なかったが、

次回以降の教室で同場面に遭遇したら、

この仮説を試してみよう。

 

車の移動時間を有意義にしてくれた3つのアプリ

こんにちは。

長野で幼児・小学生向けに

運動教室を運営している小柳です。

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地方に住んでいると、

移動手段として欠かせないのが車。

通勤や子供の送迎、お買い物など

ありとあらゆる場面で利用する。

車に乗らない日ってほとんどない。

 

この車を運転している時間

というのがバカにならない。

下手すれば1日何時間も

目的地に移動するためだけに

時間を使っている。

 

もしこれが電車だったら、

移動しながら携帯いじったり本を読んだり、

自分の時間として使える。

 

その損失感たるや。

 

そんな私の損失感を和らげてくれた

アプリが以下の3つだ。

 

podcast

bluetoothiphone

車のステレオを繋いで聴いている。

辛坊治郎ズームそこまで言うか!」

とか

バイリンガルニュース」

を聴くことが多い。

 

どちらも話題のニュースを紹介したり

解説したりするものなのだが、

知らない世界の出来事や

知っているニュースの

新しい切り口などが聴けて

とても楽しい。

 

②Audible

www.audible.co.jp

本を朗読で聴けるオーディオブック。

手と目を使わずに本の内容を

自分の中に取り込める。

倍速でも聴けるのが嬉しい。

 

ただの運転3時間が、読書3時間に変わる。

私はエッセイや教養本みたいのを

聴くことが多い。

開発してくれた人、本当にありがとう。

 

amazon music

情報ばかり入れるのも疲れるし、

気分がのらない時、

ゆったりしたい時は

amazon musicで音楽を聴いている。

 

電車では無理だけど車では可能なこと。

車内で大声で歌うこと。

一人カラオケ最高。

 

 

以上3つのアプリによって

だいぶ運転に対する抵抗はなくなった。

しかし、それでもやっぱり運転はしたくない。

 

早く自動運転が実現してほしい。

もしくは、運転手付きの生活を実現したい。

 

 

わたしが子どもをもった理由

こんにちは。

少子化の問題や保育園の待機児童問題、女性の社会進出、養子縁組、2分の1成人式の是非、虐待。

子どもや家族に関わるニュースをみたり、自分も日常で子どもと夫と家族として生活したりしながら、家族という組織や子どもを持つということについて色々と考えることがある。

そんな中、たまたま書店で見つけ読んだ本。

kanki-pub.co.jp

 

私は今のところ一人子どもを持つ人生を送っているが、

子どもがいるいない、

結婚しているしていない、

親子に血縁関係があるない、

ということが、

「朝はパン派?ごはん派?あっ、ごはん派ね。」

というくらい、

好みというかいい意味で取るに足らないことというか、

そんな感覚で捉えられる社会がいいなと思う。

 

本の中で最も印象的だった部分は、

「なぜ子どもをもちたいのか」

という問いだった。

 

 

子どもは可愛いくて愛おしいが、

自分の時間と行動を悪気もなく

ガンガン制限してくる存在でもある。

 

「愛しい娘に自分の時間を全て捧げます」

と言えるほど覚悟が決まっているわけでもない。

 

今は妊娠していることもあり、

子どもを生むこと、

生み育てることに伴うリスクの大きさを、

いつも考えてしまう。

自分が食べるものや自分の行動がいちいち胎児に影響を与える。

そんな日々が10ヶ月も続くなんて、

それを愛おしい日々と思えるほど精神も成熟していない。

いや、子どもがいること自体は喜ばしいのだが、

妊娠中や出産は何が起こるかわからない、

喜びと悲しみが常に隣り合わせのものだよね、

という気持ちが拭えない。

 

子どもをもつとか育てるとかいうことは

リスクまみれと言っても言い過ぎではないくらいに思うのだが、

それでもなお子どもをもちたいと思って、

子どもをもったのは何が背景かと考えると、

最終的に行き着いたのは結局自分の好奇心だった。

 

出産してみたい。

子どもを育ててみたい。

人が育っていく過程を共に経験してみたい。

 

こう書くと、

好奇心だけで子どもを産んで無責任だ

などという批判を受けそうだ。

しかし、真剣に考えてみて、

今のところ行き着くのはやっぱり好奇心である。

 

本の中には、著者が自分の母親になぜ自分を産んだのか、

ということを問いただしたという過去の記述がある。

 

自分が将来子どもに同じことを問われたら、

「私の好奇心です。」

と真面目にこたえる以外ない。

 

なんだか複雑な内容になってしまったが、

しかし子どもをもつ、育てるということに関して

自分の考えを深めたり言語化することに

とても力を貸してくれる本だった。

 

最後に、私(と夫)の好奇心で生まれてきた娘との今は、

成長を喜んだり、

自分の時間が削られることにイライラしたり、

一緒にひたすら歌を歌ったり、

夫と育児を押し付けあったり、

とにかく発見がある生活だ。

娘はどう思っているかは謎である。

 

出会えてよかった本だった。

 

「一生懸命」は美しい。

こんにちは。「生きる力」をつける幼児教室の開室準備をしている小柳なつみです。

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今週2回地元でやっているチアリーディング教室の見学に行ってきた。

1回目は小学生以下のクラスの練習。

2回目は小学生から中学生を含めた混合クラスの練習。

特に混合クラスは近々発表会を控えていることもあり、

練習場に入った直後からコーチや生徒の緊張感が伝わってきた。

 

私はこれまでバスケットとラクロスをやってきたが、

年齢の混合はせいぜい上下3世代まで。

しかし今回見学したチアのチームは

小学生から中学生までが混合になっていて、

それがすごく新鮮だった。

しかもその状態で一つのものを作り上げるために

息やタイミングを全員で合わせなければならない。

 

高いリフトや人が上から下へ落ちてくる演技もあり

(表現方法はともかく)

常に危険と隣合わせだ。

さらにそれを必死さを出してやっていたのでは

みている人に伝わらない。

仮に辛かったとしても、魅せる競技ゆえ

とにかく楽しくやる必要があるのだ。

 

あんなに危険で連帯責任が強くて

プレッシャーがかかるものを

ひたすら楽しそうに(楽しく)こなす。

「なんと恐ろしい競技なんだ」

というのが率直な感想だった。

 

しかし、その感想を上回る分だけ

「一生懸命」は美しい

と思った。

 

「一生懸命」は

物事を命がけですること(広辞苑

という意味だが、

この言葉が大げさでないくらい

命がけに見えた。

(事実危険度合いを考えたら毎回命がけだろう)

 

演技をしている生徒同士はもちろん

コーチやスタッフも「一生懸命」だ。

 

私は準備している幼児教室を通じて

すべての子供に豊かな子供時代を

という自分の想いを形にしたいと思っている。

 

すべての子供が対象だから、

もちろん地域も国も関係ない。

その時その時で自分ができることをしていって、

その想いを具体的な形に広げていきたい。

 

しかしそう考えながら、

さて今から自分がやろうとしていることで

それが実現できるのか

これがベストなのか

といつも考える。

 

そんな時今回の体験を経て、

目の前の生徒に

目の前の出来事に

「一生懸命」対峙することが

結果自分も生徒も、その周辺の人も豊かにするんだと

一つ学んだ。

 

手段はもちろん大事だが、

手段はそこそこのものでも

そこに対峙する姿勢で

自分も子供も豊かになるということだ。

 

そんなことを考えた矢先に

ジャパネットたかた高田明さん著

伝えることから始めよう

を読んだらこんなことが書かれていた。

 

私は本を読むときには必ずラインマーカーを持って、忘れたくないと思うところには、線を引くことにしています。もしよければ、皆さんも、ぜひ、ここに線を引いてみてください。いいですか。

今を生きる。過去にとらわれない。未来に翻弄されない。

これが本当に大切なことだと思うのです。

 

つまりですね、皆さん。私が何をお伝えしたいのかと言うと、目の前のことを一生懸命にやっていれば、自然と次の課題が見えてくる、ということなんです。次に何をすればいいか見えないということは、まだ一生懸命じゃないのかもしれません。

 

さすが伝えるプロ。

この語りかけ調の文体に完全に飲み込まれた。

 

何か方法とか手段にとらわれている自分に

気がついた日でもあった。

 

皆さん。

いいですか。

 

この語り口を習得して

高田さんに一歩近づきたい。

 

「田舎」の意味を考える

こんにちは。

生きる力をつける幼児教室kids baseの開室準備をしている小柳なつみです。

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庭で遭遇

 

ゼロ・トゥ・ワン―君はゼロから何を生み出せるか(ピーター・ティールさん著)

を読んだ。

 

「賛成する人がほとんどいない、大切な真実はなんだろう?」

という問いで始まり、

「ゼロから1を生みだすための第一歩は自分の頭で考えることだ」

で締めくくられる。

 

「自分の頭で考える」というのは

ここ数年自分のテーマでもあるのだが

それについては次回書くとして。

 

本の中では、事業を始めるときは

小さな市場をいかに独占するかが重要だ

と書かれている。

 

それを自分の現在にあてはめ、

自分の事業の舞台として考えている長野という市場を考えた。

 

長野=田舎

長野で育つ=田舎で育つ

 

田舎という言葉がもくもく浮かぶので、

田舎ってそもそもどういう状態(場所)かを考えた。

 

広辞苑によると「田舎」は

都会から離れた土地。故郷。

※一部省略

 

明鏡国語辞典によると「田舎」は

都会から離れた、家が少なく田畑・山林の多いところ。大都会から離れた地方。

便利・洗練・多様性など、都会的な要素が欠けていること。

※一部省略

 

明鏡国語辞典が一気に好きになった。

 

幼児期から大体高校生くらいまでの目線で

長野の「田舎」について自分で考えてみた結果、出てきたのは

・人が少ない

・↑ゆえにモデルが少ない(ファッションや生き方や他人のモデル)

・ビルが少ない

・田畑が多い

・物価が安い

・選択肢が少ない(具体的にはまだ曖昧)

・相対的に時間がある(幼小中受験と無縁の場合が多いから)

・競争が少ない

・高齢者が身近にいる

・車に乗る機会が多い

・持ち家率が高い

・空気がきれい

・山が見える

・食べ物が身近

・四季がはっきりしている

・人がいい(気がする)

 

各要素を眺めてまとめてみると

私にとっての「田舎」の定義は

 

人が少なくて

時間と空間に余裕があって

自然が身近な状態(場所)

 

と現時点では定めた。

 

人が少なくて

時間と空間に余裕があって

自然が身近な状態(場所)

×

幼児教育・児童教育

=生きる力

 

を具体的に成り立たせることが今やりたいことだ。

 

この勢いで、

教育はそもそも何のためにあるのか?

なぜ人を殺してはいけないのか?(突然浮かんだ)

人と社会は進歩していかなければいけないのか?(突然浮かんだ)

人間に必要な資源は何か?(突然浮かんだ)

など、色々考えた。

 

自分の頭で考えた。

 

ゼロから1を生み出す第一歩。

 

踏み出した。

 

色々書き出したノートを見返すと

最後は

「自分の価値を貨幣に替える手段が必要」

で締めくくっていた。

 

短期的な利益に目が眩む等身大の私、発見。

 

「娘のため」か「自分のため」か

こんにちは。

生きる力をつける幼児教室kids baseの開室準備をしている小柳なつみです。

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娘が生まれてから1年半が経過した。

自分だけでなく、自分以外の人間の衣食住や

日常生活のあれこれを決めなければいけない生活も

同じく1年半が経過したことになる。

 

服装におむつに食べモノに

絵本におもちゃに遊ぶ環境

親子の関わり方に至るまで

 

第一子ということもあり

基本的に全ての「決める」が初めてだ。

あれがいいの、これがいいの

判断基準をあちこちに求めながら

なんとか決める。

 

判断するとき、それが誰のためなのかということをよく考える。

そして私の場合、振り返ってみるとその大半が

「子どものため」より「自分のため」だ。

 

例えばおむつについて。

 

娘は布おむつを使っている。

肌にやさしいとか気持ちいいとかエコだとか、

もちろんそういうことも気に入っている点ではあるが

一番は早くおむつ離れして

その分自分がラクをしたいという気持ちが強い。

 

また、おむつ替えが紙おむつの時より頻繁になるので

その分子どもに触れる機会が増えるということもある。

 

五感の発達が著しいこの時期

スキンシップが大事、親子のふれあいが大事とよくいわれるが

抱っこは重いからずっとは無理だし

用もなくベタベタ触るわけにもいかないし

(そういう意味ではないと思うが)

そもそもたくさん触れ合う遊びや接し方をあまりよく知らない。

 

そこで都合よく布おむつを利用したのだ。

これは長時間放っておけば漏れるし

出ると泣く(頻度が高い気がする)から

すぐに替える必要性を感じ

結果子どもに触れる機会が増える。

 

触れ合う頻度がその後の成長でどれだけ影響を及ぼすのか

詳しいところはよく理解してないが

触らないより触った方がなんか良さそう

という自分の感覚と

後になって「もっと触れ合ってよけばよかった!」

と自分が後悔することを防ぐことが目的だ。

 

例えが長くなったが

そんな感じで一見子どものためと思われるものの裏側で

実は自分のためだと思うことが大半なのだが

中には「自分のため」を差し置いて

「子どものため」を優先しなければいけないこともあると思う。

 

私の中ではその一つが服装だ。

特にズボン。

 

スカートやワンピースなどかわいい格好をさせたいのだが

元来体育会気質であることが邪魔しているのか

どうもそれらは動きづらいのではと思ってしまう。

 

そうして結局ズボンを買うことが多いのだが

このズボンも曲者だ。

 

最近は細身のものが流行りなのだろうか

フィット感が強いものが多いが

頻繁におむつを替える側としては

フィットしすぎずゆるすぎずのズボンが嬉しい。

(はっ、、「自分のため」が既に出ていた…)

 

あとは股上が浅くお腹がすぐ出てしまったり

(娘のお腹が出ているということもある)

その割に裾が長いということもある

 

たくさん動くことを考えると

煩わしさが一つでも少ない方がいい。

 

程よいフィット感があり

抜群に動きやすく

お腹が出なくて

おしゃれなズボン

 

どこかにないかな

 

こういうズボンを作って売ってみたいというのも

最近の一つの欲望である。

 

「娘のため」か「自分のため」か

 

大なり小なり決めることが多い最近

「誰のため」かということを考えさせられることが続いている。