バルシューレ教室一旦休業

長野でバルシューレ教室(ボール教室)を開校している小柳です。

 

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(先週末は稲刈り)

 

先月末で、

6月から開校していたバルシューレ教室は

一旦休業に入った。

 

理由は出産である。

順調にいけば、あと一ヶ月程で生まれる予定だ。

 

教室を始めた段階ですでに妊娠していた。

やったことのない未知の領域だし、

三ヶ月足らずで休業になるし、

ただでさえ妊娠中何があるかわからないのに、

そんな状態で教室を始めるということには

結構な葛藤があった。

 

 

葛藤というより、

ほとんど恐れだ。

 

そもそも誰か興味持ってくれるのかな。

身体も万全じゃないしな。

批判されたら怖いなぁ。

 

こんな感じだ。

 

それでも何とか始めてみた結果、

あぁ、三ヶ月でもやってよかった

というのが正直な感想だ。

 

子どもを楽しませる楽しさや難しさ

連絡方法や集金方法の確立など事務作業の問題

場所の確保

教室の成果について

など、やりながら

考えさせられたことがたくさんあった。

 

身体が無事にもってくれたことや

怪我人がいなかったことは

運がよかった。

 

聞いたことのないであろう

バルシューレという活動に

興味を持ってくれて、

主催側は妊婦という状態でも

教室に通ってくれた

今回の生徒とご家族には

本当に感謝の念でいっぱいだ。

 

毎週教室の日だけは宿題をすぐに終わらせて

本当に楽しみにしていました。

 

とか

 

色々習い事の体験行ったものの

なかなかやりたいものが見つからない状態だったけど、

バルシューレはハマったみたいです。

 

とか

 

早く再開してくださいね。

 

とか

 

そんな言葉をかけてもらえたことが

ただただ嬉しかった。

 

同時に、

もっとレベルアップしたいなぁ

とも強く思った。

 

嬉しさや感謝を

言葉とは別の形でまた返したいなぁ

と思う。

 

もっと、もっと、

というのはとめどない。

そして、インプットに走る。(昨日の話)

 

月並みだが、

始めてよかった。

 

言動や考え方が好きな人の一人に

ちきりんさんという人がいるのだが、

ちきりんさんが昨日ツイートしていた言葉が

妙に響いた。

 

 

 

こういうことを、

自分の実感をもって

自分の言葉で発信できるように

なりたいなぁ。

  

意気込みストは

また意気込んだ。(昨日の話)

 

 

教室の写真を撮りそびれたのが

後悔だ。

 

やってよかった。

 

 

インプットに走る癖

こんにちは。

長野で子ども向けにバルシューレ教室(ボール教室)を開校している小柳です。

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突然だが、インプットに走る癖がある。

しかし、これはなかなか自分では気がつかない。

私の場合、だいたい夫に指摘されて、あぁ…となる。

 

インプットしている時は、大抵楽しい。

新しいことを知った気になるし、

そこから何か始まる気になる。

 

 

しかし、いくら本を読んだところで、

SNSを長時間みたところで、

知っただけで何かが始まることはない。

 

インプットって、何かいいことをしている気になるから厄介だ。

そこで最近、読書やネットサーフィンは娯楽と割り切ることにした。

これまでは娯楽以上の位置づけだったのだ。

なんか、為になるいいことでしょう。

時間を割く価値あるでしょう。

間接的にでも仕事に役立つでしょう。

みたいな。

 

娯楽は必要である。

インプットも必要である。

いつか役にも立つ。きっと。

 

しかし、たまに虚しくもなる。

何も出してないぞ自分。

何かこれ読んで考えたっけ。

みたいな。

 

ごはんなら、食べたあと

身体が自動的に必要なものと

不要なものを判断して

いらないものは

排出してくれるのに。

 

情報の場合は

自分でその仕組みを作らないと

出ていかない。

情報便秘である。

 

出す人。

快便な人。

 

目指す。

 

ちなみに、最近夫につけられたあだ名は

意気込みスト。

 

意気込みst。

 

「意気込みはいつもすごいよね!」

 

脱意気込みスト。

 

ヘルシオホットクックの威力

長野県で幼児・小学生向けにバルシューレ教室(ボール教室)を開催している小柳なつみです。

 

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運動教室とは関係ない内容が続いているが…

それにしても、最近感動したことをどうしても綴っておきたい。

 

最近、ヘルシオホットクックという無水自動調理鍋を買った。

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これが、もう、本当に、すごい。

 

本当に、すごい。

 

友人に話したら、テレビのCMでやっていると言っていたので、

結構有名なのだろうか。

 

購入に至ったのは、勝間和代さん著

勝間式 超ロジカル家事

を読んだのがきっかけだ。

あの超論理的、超ロジック重視の経済評論家が

時間もお金もかけて自ら研究し、

日々の家事の時短・効率化を紹介してくれる本だ。

今の自分では到底投資できない時間とお金を使って実験し、

しかも鍛えられた論理的思考力を持って

それらの情報を整理して伝えてくれるのだから、

こちら側の投資として1,200円とはなんとお得なのか。

 

別に勝間さん崇拝者でもないし、

回し者でもない。

 

ただただ、この人がかけた労力を考えると、

なんと有難いのかと思うのである。

(だって、料理本なんて100冊以上読んでるらしいよ。)

 

ここまで絶賛しておいてだが、

この本の中では今回話題にする

ヘルシオホットクックは、

そこまで推奨していない。笑

混ぜる機能がイマイチなんだそう。

 

元々は、本で推奨されている象印のIH鍋を購入しようと電気屋に行ったのだった。

しかし、そこでホットクックの存在を知り、最終的にホットクックを買うことにした。

 

ホットクックの気に入っているところは、

材料を切って調味料を入れてボタンを押せば、

一品作ってくれるところだ。

しかも得意分野が、自分で作るには面倒くさい

煮込み系の料理であること。

カレーとかシチューとか

ひじきや大根の煮物

筑前

など、普通に鍋で作るとなったら、時間測ってグツグツ煮て、

火加減調節して、頃合いをみて味付けして…

みたいな、工程がとにかく面倒くさい。

 

いろんな野菜取れるし日持ちするという点で

煮込み系は有難いのだが、

切って終わり、サッと炒めて終わり

みたいな料理と比べると本当に面倒くさい。

 

それを、このホットクックは、

切って入れてボタンを押すというだけで、

しかも朝や寝る前に予約しておけば、

帰ったタイミング、起きたタイミングで

おかずができているのだ。

 

我が家は朝お味噌汁をよく飲むのだが、

これを作るのが結構面倒だった。

それもこのホットクックに夜材料入れておけば

朝起きた時にできている。

 

この手軽さと、何より台所を離れられる、

その場にずっといなくてもいいということが、

どれだけ精神的に楽にしてくれるのかということを

日々実感している。

鍋に突っ込んでボタンを押しておけば、

出来上がりまで子どもをお風呂に入れたり

一緒に遊んだりできる。

 

購入してからは、一日も欠かさずフル活用している。

安くないが、投資価値は十分あったと

鍋を愛でる毎日である。

 

小さい子どもがいると、外食もいちいち面倒くさい。

今は結局家で食べるのが一番楽で疲れない。

 

自分と家族の精神的・肉体的健康のために、

調理家電はオススメだよ!

というお話でした。

 

 

 

 

「ねぇ聞いて聞いて!」の傲慢さ。

長野でバルシューレ教室(ボール運動教室)をしている小柳です。

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先週から始まった、資格取得のために東京に通いつめる8日間。

今日でやっと最終日だが、夫も私もヘトヘトである。

毎朝、「あと◯日...あと◯日...」

と残日数を確認し合うのが日課であった。

 

家族全体の疲労が頂点に達した昨夜、事件が起きる。

 

義理母が持たせてくれた(そういえばあちらの疲労具合も確認せねば...)カツ丼と夏野菜の浅漬けを食べながら、何気なく日中の出来事を話し始めた私。

 

それを聞く夫の相槌は、

「へぇ〜!」

「あぁ〜、あるあるぅ〜!」

「そうだよね、そうだよねぇ〜」

 

字面にするとなかなか優秀だ。

 

しかしその言い方が、とにかく感に触るのである。人を小バカにするような、こうすればいいんでしょ的な、つまりわざとらしいのだ。

 

ただ、このような相槌が生まれたのには背景がある。

過去に私が話しを聞いて欲しいのに思ったように聞いてくれないということがあり、その際

「アドバイスが欲しいんじゃなくて、ただ聞いてくれればいいのに」

と不満を漏らして以来、時たま今回のような聞いてるよ聞いてるよ〜、こうやればいいんでしょ〜的な相槌砲が打ち込まれるようになった。

 

自分に余裕があるときは、

「出してきたな相槌砲〜」

で流せるのだが、

なんせ眠いし疲れているし余裕がない。

 

「むかつく。」

と一言言い放って、その後は鉄仮面状態だ。

(※私の怒った状態は我が家ではこう呼ばれる。何があっても無表情。問いかけには一切応じない状態。)

 

重苦しい食卓で、今度は娘が反撃を始めた。

食事の途中で机の上に足をのせ始めたのだ。

「下ろしなさい。」

下ろさない。

「下ろしなさい。」

下ろさない。

 

応じない娘の相手は鉄仮面だ。

早々に無視を決め込む。

構ってほしくて泣きながら抱っこをせがむ娘。

見兼ねた夫が娘に

「ママにごめんなさいしなさい。」

となだめる。

 

「ママにごめんなさいしなさい。」

 

「ママにごめんなさいしなさい。」

 

違う...

 

娘じゃなくてお前が引き金じゃぁぼけぇええええええ!

 

これを最後にモノに当たりたい衝動に乗っ取られた私は、机に置いてあった娘のスプーンを握りしめ、

「むかつくー!!!」

と言いながら拳を何度も机に叩きつけた。

 

びっくりする夫。

 

「ママ、スプーン机にトントン?」

喜んで真似したがる娘。

 

もう無理だ。

 

とりあえず席を離れる。

家事をする。

少しずつ冷静になる。

 

私は疲れている。

しかし、夫も疲れている。

私は話したい。

しかし、夫は聞きたいわけじゃない。

 

お風呂に入りながら、

「ねぇ、聞いて聞いて!」

の前置きだけでマシンガンのように話し始めることの強引さを反省した。

 

お腹いっぱいの相手に

「ねぇ、おいしいから食べて食べて!」

と相手の反応を待たずに口にモノを突っ込むようなものだ。

 

相手に聞く、聞かないの選択をする権利がもちろんある。

 

 

「ねぇ聞いて聞いて!」

という言葉の傲慢さたるや。

 

 

お風呂から上がり、机に座る夫に麦茶を差し出して、

「さっきはすみませんでした。話しを聞いてくらないことにムカつきました。しかし、話しを聞きたくないときもあると過去に言っていたことを思い出しました。今後は、ねぇ聞いて聞いて!を、ねぇ話したいことがあるんだけど、聞いてくれる?と、選択できるようにします。

これ、麦茶。どうぞ。」

 

と詫びた。

詫びながら、詫びる自分エライ。と自分の自尊心を必死に守った。

 

疲労を溜めるのは本当によくない。

 

今回の研修内容を骨の髄まで染み込ませて、生み出す対価を惜しみなく疲労回避に回せるくらいの価値にしよう。

家族の平和と心の安定のため、疲労回避に惜しみなく投資できるようにしよう。

 

そう誓い、研修参加の意味を改めて噛み締めた夜だった。

 

 

 

 

娘の発熱、私の研修、夫の仕事

長野でバルシューレ教室(ボール教室)をやっている小柳です。

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昨日から東京に通っている。

春から通信で受講しているモンテッソーリ教育の講師資格取得講座。

出席必須の講義が8日間連続で東京であるのだ。

娘、夫、私、それぞれの生活を勘案し、毎日日帰りで通うことにしたのだが、朝7時前に出発し、帰りは19時半。

娘の保育園送り迎えや夕飯の準備など全部丸投げだが、夫と義理母タッグのおかげでなんとか参加することになった。

 

加えて今妊婦なもんだから、勢いだけではどうにもならない制約もある。

些細なことだが、ちょっとでも体調が優れなければ絶対無理しない。歩くときは急ぎ過ぎない、走らない、など、余計な負荷がかかりすぎないように、体調優先で行動を選ぶようにしている。

 

そして臨んだ講義初日。

講義開始3分前に、携帯が鳴った。

保育園からだ。

 

まっ、まさか...

 

娘が手足口病の疑いがあるため、すぐにお迎えに来て欲しいとのこと。

 

慌てて夫に連絡をとる。

しかし、手足口病ということは少なくとも数日保育園にいけない。

 

予定していた8日間の生活計画は、初日にして変更を余儀なくされた。

 

熱も出て元気がない娘。

仕事がある夫。

講義に出ないと資格がとれない私。

 

帰宅後娘を寝かしつけて、義理母が私へと夫に持たせてくれた丼2杯分くらいあるカレーを頬張りながら、はて、何を優先すべきかと考えた。

 

一晩寝て、娘の様子も悪化はしなかったため、とりあえず講義には行くことにした。

 

妊娠している私に、

「なんの研修か知らないけど、身体に何か粗相があったらいけないからね。」

と賛成しかねる感じなのに、ついでに娘と夫の夕飯準備のおしつけを引き受けてくれた義理母。

 

子育てに関して、口を開けば

「もう、なんたって子どもにとっては母親なのよ!」

と、母親の重要性を語る義理母。

 

今回の一件で、一番気が気でないのはもしかしたら義理母かもしれない。

 

具合の悪い子どものそばにいてあげないで、それでも母親なの?

 

そんな風に思ってるかもなぁと、ふと考えたが、いやいや、憶測であれこれ考えるのは身体によくない。

体調第一体調第一。

そう言い聞かせながら丼カレーをかきこんだ。

 

こんなことを書きながら山手線に乗っていたら、電車がトラブルで緊急停車した。

なんと...

 

東京って楽しい。

小学生がドッジボールを好む理由

長野県でバルシューレ教室(ボールを使った運動教室)を開催している小柳なつみです。

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(娘の保育園で配布された「お子様への願い事」を書く短冊。)

 

県内2カ所で開催しているバルシューレ教室。

昨日は片方の小学生クラスがしばらくお休みになる(講師都合+祝日の関係で)前最後の教室だったため、

教室の後半はみんなが好きなプログラムやろー!

と声をかけた。

今までやってきたプログラムの中で

楽しそうにやっていたもの2、3個を

想像していたが、返ってきたのは

 

ドッジボールがいい!!!」

 

 

えっ???

 

 

ドッジボールはバルシューレのプログラムにない。

もちろん、教室でやったこともない。

 

しかし、誰かが言い出したその言葉に、

他の子が次々に乗っかって、

しかもなんかみんな目がキラキラして見えたので、

それならばと希望通りドッジーボールをやることにした。

 

帰りの車の中で

なんでそんなにドッジーボールがやりたいんだろう?

と考えてみたが、結論、

みんな人にボールをぶつけたいんだな

ということと、

あたるかあたらないかという

スリルがたまらないんだな

ということ。

 

思えば、人にボールでもモノでも、

投げてぶつけていい場面というのは

日常の中ではほぼない。

やりたくてもできない。

好奇心に負けやってみたところで、

大体怒られる。

 

しかし、ドッジボールならそれが許される。

しかも、仲間から称賛までされる。

 

そんな日常の抑制やストレスが乗っかったボールの

恐ろしいこと恐ろしいこと。

しかし、そんな相手の恐ろしいボールを

受け手はするりとかわす。

相手の望み通りにしなかったことの

快感と言ったら。

日常生活の中では、他者の望みにできるだけ

答えることが望ましいとされる。

そばにあるリモコンを

「とって」と言われ、

「やだ」と返したら、

大体険悪になるだろう。

 

しかし、ドッジボールならそれが許される。

しかも、仲間から褒められる。

 

 

私は自分の主催するバルシューレ教室が、

できるだけ子どもたちが気持ちよく

スッキリして帰ってもらう場になるといいな

と思っている。

 

「楽しい」と思ったり

夢中になる感覚があればあるほど、

脳内でドーパミンが分泌されて

学習(身体的な)能力も上がるらしいので、

身体的な発達も促されるし、

何より快感を味わえる。

気分がすっきりする。

 

運動能力をあげながら、

快感も得てすっきり家に帰り、

また翌日から学校なり家なりでの

日常生活を頑張ってくれたらいいな

と思う。

 

そんな体験を、プログラムをやっている間中

ずっと提供するにはまだまだ力不足だが、

しかしここを目指して試行錯誤を続けたい。

 

 

ドッジボールの威力を思い知った夏の夕暮れ。

 

すげぇぜドッジボール

 

 

 

 

子どもの「できない」と大人の受け止め方

長野で幼児・小学生向けに運動教室をしている小柳です。

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幼児クラスの時間では、プログラムが思い通りにできず

子どもがお母さんのところに泣きついていく光景がよく見られる。

 

先日も、とある女の子が自分の思い通りに風船やボールを操れず、

教室の間2度3度と母親の元に行き、泣いていた。

 

お母さんは

「もう一回やってみればいいじゃん」

「そんなに泣くことないでしょう」

「最後までやってみなよ」

と、正確には覚えていないが、

こんなようなことを女の子に言っていた。

 

泣いている女の子を見ていた別のお母さんは、

「ああいう風に悔しい!ってなっているときはどうやって対応したらいいんでしょうね」

と、ポツンと言った。

 

教室主催側の私としては、

やっている子ができたりできなかったりするプログラムを提供することは理想だ。

完全にできないわけじゃなくて、たまにできる。

夢中で何度もやって、少しずつ身体が慣れていく。

気づいたらできることが増えてた。

そんな展開は理想だ。

 

そういう意味では、泣こうがわめこうが表現方法がどうであれ、

悔しさを感じているその子には、「いいね!」と思う。

しかしそのあとプログラムを投げ出しお母さんに飛びついていってしまう。

それはどうだろうか。

 

「悔しい!」という不快な感情が

その後快感を得るための原動力になるような働きかけができたら

悔しいと思ったその経験はより生かされると思う。

 

そのためには、

お母さんの元で泣く子に

「頑張って最後までやろう」

とかいうよりも、

「できなくて悔しかったね」

と、状況と感情を言葉で共有したあと、

「もう一回同じことやってみる?それとも得意な〇〇の方やってみる?」

と、同じことを続けてやることで

できない→できるになるプロセスを経験して快感を得るか、

できなかったことから一旦離れて、

もともと得意なことをやることで快感を得るか、

そういう選択肢を提示できたら、

「悔しい!」と思った経験が生かされるのではないか

と仮説を立てた。

 

今回は、そんな場面での対応をお母さんに任せたまま

「気持ちが落ち着いたらまたおいで」

と、関わることが少なかったが、

次回以降の教室で同場面に遭遇したら、

この仮説を試してみよう。